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2006.08.03 (Thu)

フランス近代 サティ

いよいよドビュッシーやラヴェルと同世代の作曲家にスポットを当てていきます。

ドビュッシーやラヴェルと並んで革命的に登場するのがサティ。
相変わらず色字は、私の独断と偏見によるオススメ作品です。

エリック・サティ(1866-1925)は幼少の頃はあまり幸せに過ごせていないようで、母が70年に亡くなり、祖父母に預けられるものの祖母が不可解な溺死という出来事がサティに影響している、と言われています。
13歳でパリ音楽院に入学も、軍隊に入り中退。軍隊もわざと風邪をこじらせて退役。既に奇妙な行動を起こしています。この頃からカフェのピアニストとして生計を立て、生まれた作品が「3つのサラバンド」や「ジムノペティ」
90年にはドビュッシーと、94年にはラヴェルと知り合う。このころ「ジュ・トゥ・ヴ」を作曲。ドビュッシーには惹かれたようで、「梨の形をした3つの小品」について意見を求めています。このころから奇行は本格化。
ドビュッシーやラヴェルが成功していくのを焦りと感じたのか、05年スコラ・カントルムに入学し、ルーセルに対位法を習い08年に卒業。苦労して習得した対位法を使った作品を発表するものの、認められず批判されます。
その後、1910年前後から、ラヴェルらが「ジムノペティ」を取り上げ、その結果、サティにとって20年以上昔の作品で評価されるようになり、サティは戸惑います。ドビュッシーの評価が落ち始め、若手がサティの「ジムノペティ」など昔の作品を評価するようになり、サティの取り巻く環境が変化していきます。
12年から15年にかけて「スポーツと気晴らし」などのピアノ曲を作曲。この頃にはオーリックやストラヴィンスキーと出会っています。ストラヴィンスキーとはドビュッシーを通じて知り合ったようです。
17年にはコクトーとピカソによってバレエ「パラード」を上演、問題作となります。これによって若い音楽家が集まり、後年サティと6人組と呼ばれるグループになります。このあとも挑発的な作品を発表し、1925年に亡くなります。

サティに関しては、賛否両論であまりにもいろいろいわれています。
サティは当時流行したワーグナーにもドビュッシーの霧にも毒されていない作曲家のように思います。つまり、既成概念のない作曲家、というところでしょうか?
サティはフランス音楽の進路をいくつも示した、とラヴェルが言うように、サティがフランス音楽に多大な影響を与えたのは間違いないのですが、サティにしてみれば、我が道を進んでいる、だけのことのように感じてしまいます。
シンプルで心地のよい音楽、そういうイメージですね。
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テーマ : クラシック ジャンル : 音楽

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 |  2006.08.03(木) 05:11 |   |  【コメント編集】

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